相浦和生先生は今年昇天されました。先生の愛溢れるメッセージが忘れられず、削除できません。このページはこれまでの代表的な週報を掲載いたします。新しい週報はface bookをご参照ください。

2017年7月23日「ペトロの説教」  相浦和生師

 

お招きをいただき、ありがとうございます。 

 

7月の2度目は「使徒の働き」第2章の後半です。2:1-13「聖霊降臨の出来事」に続く14-42節に新共同訳は「ペトロの説教」と表題をつけています。ペトロの説教は3:11以下にも記されていて「ペトロ、神殿で説教する」と表題がつけられています。

 

「説教」ということばはわたしたちキリスト教徒にとっては日常用語ですが日頃あまり深く考えてはいないのではないでしょうか。「説教」は主に聖日礼拝における牧師の説教という意味で用いていますが、聖日礼拝以外のたとえば夕拝とか各集会においても説教という場合があります。さらに説教は牧師だけがするのではなく信徒がする場合も少なくありません。日本基督教団の教職制は「補教師」と「正教師」の二種教職制です。「補教師」に任織されることを「受允(ジュイン)」を言います。「説教することを許される」という意味です。組合教会においては牧師も信徒であり、教会員なのです。つまり、牧師は説教担当信徒というわけです。

 

ところで「説教」って一体なんでしょうか。大辞苑では「①宗教の教義、経典を、信者などに、口頭で解き明かすこと。またその話。『牧師が礼拝でーする』 ②教え導くために言い聞かせること。また堅苦しい教訓という語。『親にーされる』」とあります。②は「お説教」と言われます。この大辞苑の説明①を聖書に当てはめると半分は等を得ていますが半分は言い得ていません。大辞苑が不備だといっているのではありません。

 

「使徒の働き」の中でのペトロの説教は「教義、経典を、信者などに、口頭で解き明かすこと」というよりは、キリスト教(イエスの十字架と復活)に反対する者たちへの「弁明」「証し」なのです。「説教」が「弁明」であるということを若い時に知っていたら自分の説教体系もかなり変わっていたと思います。

余談ですがメソジストの創始者J・ウェスレーは生涯5万回の説教をしたと伝えられています。5万回ですよ。凄いですね。相浦は?恥ずかしくて言えます。言えませんではなく。                                

 

2017年7月9日 「ペンテコステの日の出来事を今一度思い出してみたい」相浦和生師

 

お招きをいただき、ありがとうございます。 

 

7月は2度お招きを受けていますので「使徒の働き」をテキストにお話させていただきます。4月に第1章を2回に分けてお話ししましたので今月は第2章を2回に分けてお話します。第2章は段落が3つありますので困るのですが。

 

何故「使徒の働き」がテキストなのかにつきましては、お忘れになっていると思いますので機会を見て4月2日付週報を再読していただければ幸いです。

 

「使徒の働き」第2章の冒頭は「聖霊降臨日」についての記述です。教会暦で今年は6月4日が「ペンテコステ」でした。教会暦は新約聖書の記述を基に太陽暦を一周期として作成されていて、「クリスマス」「イースター」「ペンテコステ」を柱に構成されています。教会暦については周知のことですので説明は不要でしょう。教会暦はわたくしも大切にしていますが難点もいくつか(教派によって基本は同じですが異なっている、時系列で考えがち等)あります。例えば、クリスマスの記事マタイの福音書、ルカの福音書それぞれ1章と2章は12月にしか読まない、説教しないとか、4つの福音書における十字架と復活の記事は3月4月にしか読まない、説教しないとか。そのようなことはないといわれる方もおられるとは思いますが。

 

「聖霊降臨日」は「ペンテコステ」ともいいますが「ペンテコステ」の訳語が「聖霊降臨日」ではありません。「ペンテコステ(五旬節)の日に一同が一つになって集まっていると、そこに聖霊が降った」というのです。(使徒の働き2:1-13の記事は)良く知られていてここでどのような新しいメッセージが語れるのかについて自信はありません。でも「聖霊降臨の出来事を今一度考えて見たい」と説教題としてはあまりふさわしくないのですが聖書の読み方を変えるとか視点を変えることを試みたいと思っています。ヒントは「聖霊」です。聖霊って一体何なのでしょうか。 

 

 

 

 

2017年6月11日 「一緒に生きる!この時代を」 吉高 叶師

 

世界のことをギリシャ語でオイクーメネーといいます。オイクーメネーということばはオイコス(家)という言葉から出ています。神のつくられた家、その家の家族、というイメージです。この家を大切に丁寧に管理していく、それが人間の使命と責任でした。その管理人のことをスチュワードといいます。

 

私たちにとって大切な環境・エコロジーも経済・エコノミーという語。このエコという言葉もオイコスから来ていますから、環境問題も経済問題も、根源的には「神の家を正しく治める」という思想を含んでいるのです。けれども、人間が、その使命と責任を勘違いして、我が物顔で食いつぶしたことによって、危機(クライシス)を迎えているわけです。エコノミカルクライシス、エコロジカルクライシスと呼ばれるものです。

 

 前述したように、スチュワードとは管理人のことで、スチュワードシップとは、神さまの賜る恵みをよく管理し、恵みを享受する場を保ち続ける役割ということなのですが、人間はこれに失敗しつつあります。

 

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」創世記1:28 「従わせる」「支配する」ということを取り違え、この地球環境をわがもの顔で私物化し、痛めつけてしまった人間。どうしようもない、やぶれかぶれな管理人です。でもね・・・。

                                         

 

2017年6月18日 「旧い契約 新しい契約」 相浦和生師

 

お招きをいただき、ありがとうございます。 

 

旧約聖書の思想の続きです。今月のテーマは「契約」です。本来、「旧約聖書」は「旧契約聖書」、「新約聖書」は「新契約聖書」であったことは周知の通りです。そして、「旧契約」とは「神ヤーウェとイスラエルの民との契約」、「新契約」とは「主イエス・キリストの十字架において体と血を通して実現した神と人との(罪の)赦しの契約」であることも周知のことです。周知のことであれば、「契約」思想について何をお話しすればいいのでしょうか。

 

「あかしの箱」(「神の箱」「掟の箱」「契約の箱」ともいいます。各日本語訳聖書では混在して使われています)は、モーセがホレブ山で神ヤーウェから授かった十戒を刻んだ石のいた2枚を納める「箱」のことで、その仕様については出エジプト記40章の冒頭に記されています。

 

この「あかしの箱」はイスラエルの民にとって最も重要なものだったのですが、往々にして他民族(特にペリシテ人)に奪われました。信仰的に弛んでいたからです。ペリシテ人にとって「あかしの箱」は何の意味も価値もないものでしたが、それを奪うことはイスラエルの民が、髪の毛を切り落とされたサムソンのように、ホウレンソウを欠いたポパイのように、意気消沈させることが目的だったのです。Ⅰサムエル記4:5にある「主の契約の箱が陣営に着いたとき、全イスラエルは大歓声をあげた。それで地はどよめいた。」という言葉は、ルカ福音書15章にある三つの「失われたものが見出された時の歓喜」の記事のようによくわかります。

 

話を戻します。「契約」という言葉が最初に登場するのは創世記6:18です。「しかし、わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは、あなたの息子たち、あなたの妻、それにあなたの息子たちの妻といっしょに箱舟に入りなさい。」。今朝は「ノアの洪水の物語」をテキストに旧約聖書における「契約」思想を学びます。わたしたちが生きている現代社会もいわば「契約社会」ですが、そのことも併せて考えます。

 

 

2017年5月14日 「罪と罰」 相浦和生師

 

お招きをいただき、ありがとうございます。 

 

旧約聖書の思想に戻ります。今月のテーマは「罪と罰」です。新改訳聖書は「罰」の代わりに「咎」「罪に定められる」「あなた(神)は追い求めない」「向かって燃える」等々としていますが今日は「罰」でいかせてください。すぐに念頭に浮かぶのはドストエフスキーの小説「罪と罰」です。かつてわたくしは読みましたが難しかったです。ドストエフスキーは横に置いて、今日共に考えるのは聖書が記した「罪と罰」についてです。「罪」と「罰」はセットですが漢字として、「罪」は54巻(旧約32巻、新約22巻)に、「罰」は39巻(旧約27巻、新約12巻)に記されています。(新共同訳聖書のデーターで恐縮です。)

 

漢字の「罪」が最初に登場するのは創世記4章7節カインとアベルです。ちなみに「罰」は創世記19章15節ソドムの滅亡です。でも内容としての「罪と罰」が最初に登場するのは創世記3章の「蛇の誘惑」の記事です。エバとアダムがエデンの園で禁断の木の実を蛇の誘惑によって食べてしましました。これが人間の最初の罪とされ、「原罪」と言われています。そしてその罰としてアダムとエバは楽園から追放されます。つづく4章の「カインとアベル」、6章以下の「ノアの洪水」、11章の「バベルの塔」も主題は全ての「罪と罰」です。余談ですが、これらはJ資料(ヤハウィスト)によるものです。

 

※創世記の資料説はご存知のようにJ資料(BC750年頃)の他にE資料(エロヒーム 850年頃)、P資料(祭司 BC7世紀)、D資料(申命記 550年捕囚期後)がありますが、これらは研究の進展に従って、たとえばJ123等細かく細分化されています。

 

アダムとエバの堕罪は蛇の「誘惑」に起因しています。創世記の記事にマタイの福音書4章の「荒れ野の誘惑」を重ねて考えて見ます。

 

 

2017年4月30日 「しるしが頼りか」 鍋谷由美子師

 

おそらく名前も知らない私であると思います。日本基督教団・無任所教師 鍋谷由美子と申します。 

 

お招きをいただきましてありがとうございます

 

本日の聖書箇所にありますが、「しるし」を見たいと思いますか?見たことがありますか?きっと「奇跡」を見たことがあると答える方のほうが多いと感じます。「しるし」と奇跡は違うのでしょうか。ブルンナーという神学者は、「しるし」とは、「本当に神のために語っていることを証拠立てる神の信任書(つまり保証*鍋谷由注)」で、「奇跡はこの地上で行われ、しるしは天に(あるいは、天から)現われる」と区別しています。しかしヨハネでは「しるし」と「奇跡」は同義で用いられている、としています。

 

Yさんは、悪性腫瘍だと診断されてから、体中に転移しておられるのが判り、わずか5ヶ月足らずで天に召されました。彼女の闘病期は多くの人々に感動を与えました。

 

毎月の家庭集会は休まず、本人が一番輝いていました。「私は神様からビッグプレゼントをいただいた。また好きで好きで追いかけまわした人と結婚して、79歳の今日までこんなに幸せなことはない」と。最期の最期まで、家庭を解放し、見舞い客を拒まず、召される数日前から目が見えなくなった時でも、顔だけは笑顔で応えておられたYさん。生きることと死ぬことを掌握した最期でした。

 

まさに神様の「しるし」を生き抜いた形で表されました。牧師であるご主人は、葬儀の挨拶で、「私以上に牧師でした」と亡きご夫人にねぎらいの言葉をおくりました。彼女はご自身のお名前にある通り、「幸い」で人生を締めくくられました。

 

今日は、与えられた聖書箇所から「しるしが頼りか」をみてまいりたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

2017年4月23日  「使徒の補充」 相裏 和生師

 

今年は3月1日からレントに入り、4月9日から受難週、14日の十字架の日と進み、先週16日にイースターを迎えました。

 

「イースター おめでとうございます」

 

わたしたちは「イースター おめでとうございます」と挨拶を交わします。それでは何故「イースター」が「おめでとう」なのでしょうか。素直に「イースター おめでとうございます」と言えばいいのですが。少し考えて見ましょう。

 

「復活」について4つの福音書が書いたことは「空虚な墓」についてだけでした。愛する主イエスが十字架で悲惨な死を遂げた出来事を目前にした人たちがどれほど意気消沈したかについては想像に難しくはありません。更に、安息日明け墓参に出かけた女性たちはイエスの遺体をおさめた墓が空っぽである出来事に遭遇しました。天使の「あのあなた方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という声を聞いても(復活を)信じることは出来ませんでした。「おめでとう」とは無縁の状況だったのです。  

 

「・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の中からよみがへり、天に昇り・・・」(使徒信条)。人々が復活の意味を理解したのは「聖霊降臨」の出来事の折でした。理解したとは復活の構造が分かったということではありません。「復活が神の御計画の実現の証しであった」ということを理解したということです。新約聖書で「おめでとう」という言葉は一か所、ルカ1:28天使がマリアに言ったこの言葉だけです。天使は「神の御計画が実現した」ことを告げる言葉として「おめでとう」といいました。

 

くどいですが、「イースター おめでとうございます」と挨拶するということは、「復活は神がわたしたちに主イエスの十字架の死を通して罪の赦しと救い、そして希望を与えるという御計画が実現したことを感謝する」証しをするということなのです。

 

本日は「使徒の働き」1章の後半から学びます。

 

 

 

2017年4月9日 「義と認めて下さる神」中道基夫師

ある夜のこと、神さまは、疑うアブラハムを外に連れ出して、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)と言われました。このアブラハムに対してなされた神さまの約束はユダヤ人にとって絶対的なものです。神はこの約束を破棄にされる方ではありません。

 

 ただ、現代のわたしたちに「あなたの子孫は星のようになる」ということを言われても、ピンときませんし、そんなことはあまり望んではいません。「あなたの財布の中身はこのようになる」と言われると期待もしますが。ただそれは、子孫繁栄、人数や国力、経済力の問題ではなく、「救い」ということ、「神の国の到来」ということで表されたのです。

 

 この言葉を聞き、アブラハムは「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)というのです。問題は、子孫繁栄ということよりも、「神さまがアブラハムを義と認められた」ということです。

 

 そこには、アブラハムの強い決断力、圧倒するような信仰の力があったわけではありません。この後、こどもを待ちきれない年老いたアブラハムは自分の力でなんとかしようとします。しかし、神さまはアブラハムを義と認められました。ローマ書は「何の働きもない者、不敬虔な者を義と認めてくださる」(4:5)と語っています。

 

 そんなことは考えられないことです。何の働きの無いもの、不誠実であったり、能力のない人は、この世界の中では「義」(good)とは認められません。しかし、神さまは「義」(good)と認めてくださるのです。それはどういうことでしょうか。神さまは、いわゆる現実世界を離れたところで、ニコニコと笑いながらわたしたちを甘やかせてくれる方なのでしょうか。しかし、そこに希望を見いだすことができるならば、それは安価な「よしよし」ではなく、疑いを打ち破り、絶対的な力をもたらす「よし」を与えてくださいます。

 

2017年4月2日「第一回の召命、第二回の召命」 相浦和生 

春の到来と共に4月に入り2017年度が始動しました。教会暦でいえば、教会は3月1日「灰の水曜日」から始まったレント(受難節)の日々を歩んできましたが、次週9日には「棕櫚の日曜日」を迎えます。そしてその日から「受難週」にはいります。16日には「イースター」を迎えます。

 

お招きをいただき、ありがとうございます。

 

旧約聖書をテキストにした説教を続けてきましたが、4月は2度お招きを受けていますので、旧約聖書をテキストにした説教を小休止して新約聖書に戻ります。新約聖書27巻の内から使徒言行録をテキストにした説教をさせていただきます。

 

何故「使徒言行録」なの?

 

はい! 使徒言行録を通して教会の本質 ―教会とは何かーについて今一度考えて見たいと思ったからです。

 

そうであっても何故使徒言行録なの?

 

はい! 正直に言わたくし(相浦)はルカ文書(ルカによる福音書と使徒言行録)が好きなのです。相浦の好みなどどうでもいいことなのですが、順序でいえばルカによる福音書からでしょう。わたくしは二つの教会でそれぞれルカによる福音書の連続説教を試みました。一字一句飛ばさない講解説教でした。約120回ですので2年以上かかりました。神戸新生バプテスト教会様でもさせていただきたいとは思うのですが10年かかります。それでルカによる福音書を土台として使徒言行録を学びたいと思ったのです。使徒言行録なら途中で切れても差し支えありません。その都度ポイントを定めます。

 

4月は第1章を2回に分けてお話します。テーマは何度も繰り返しますが「教会の本質 -教会とは何か」です。

 

2017年3月26日主の受難と私たち  吉村信夫

 

 レントの期間を過ごしています。クリスマス前のアドヴェントの過ごし方が大事なのと同様に、キリストの受難と復活を記念する準備期間であるレントの過ごし方も非常に大事なことです。マンネリ化してきたり、無味乾燥な中で過ごしてしまったりすることがありうるからです。

 

 最初のレント、つまり実際にイエスが十字架に付けられる直前の状態、イエスや身近な人たちの感じていた思いなど、福音書の記述から推察していくことになります。たとえば、ルカ福音書10章38~42節にイエスがマリアとマルタを訪問する話があります。イエスが宣教活動を始めて間もない時期には、イエスの人気は大したもので「ガリラヤの春」と称されるほどでしたが、ヨハネ福音書6章66節には、イエスのもとを離れていく多くの弟子たちのことが書かれています。

 

 ある解釈では、人気を失っていろいろなつらい状況にあったイエスが、最も親しい友人たちの家を訪問したのがルカ10章の場面だと言います。心にしんどさを抱えていたイエスがマルタ姉妹に求めていたのは、心の分かち合いであって、もてなしに心を配ることではなく、ひたすら聞いてほしかったのだという解釈です。私たちも経験があると思います。何を食べる、何を飲むではなく、とにかく話を聞いてほしいということがあるでしょう。黙ってそこに座って私の思いを受け止めてほしいということです。「マリアはよい方を選んだ」とのイエスのことばは、「マリア、うれしかったよ。ありがとう」と言っているようです。

 

 揺れ動くこともあったイエスの心境、マルコ14章36節のことばに表れています。この杯を遠ざけてほしいと願い、でも父の思い通りにしますと心に決めていきます。しんどさは、しんどいという理由だけで避けてはいけないと教えます。それが神のみ旨であるかどうかだということです。しんどさを引き受けなさいということもありえます。

 

 イエスの心情を推察すると同時に、自分たちへの神の導きを識別する恵みを願いたいと思います。

  

 

2017年月19日 神様からいただく「よし}  中道基夫

今年の1月から、ローマ人への手紙について説教をしてまいりました。これまでは、パウロがローマの教会の人たちに伝えようとする福音について、その時に問題となっていたユダヤ人とその選民意識、そして律法の問題、それが現代のわたしたちにどのような意味があるのかをお話ししてまいりました。

 

 先週の聖書箇所(ローマ2:1-16)には、律法また律法に則った人間の判断が神さまの恵みによる救いには全く意味がないことが書かれていました。すると、神さまが定められた律法は何の意味を持つのか、神によって命じられ長い伝統を持つ割礼はまったく意味がないのかということが問われてきます。ユダヤ人に与えられたアブラハムの約束はどうなるのか。そのような問いが2章、3章に書かれています。パウロが一貫して言っているのは、ユダヤ人もギリシャ人(外国人)も神さまの恵みの前ではまったく同じであるということです。8000mを越える山を前にし、標高200mのところにいるのも、標高100mのところにいるのも、そんなにかわりが無いものです。その結論としてパウロが言うのは、「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ3:20)ということです。

 

 では、いったい誰が救われるのか。神さまに救われる、神さまに「よし」(義)といってもらうにはいったいどうすればいいのか?この最も重要な、キリスト教の根幹に関わる問題について、パウロはローマ3:21以下に語っています。それは、「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:24)という一言に尽きます。信仰による義、神さまの恵みによる義、それはいったいどういうことなのでしょうか。パウロの言葉にしっかりと耳を傾けたいと思います。

 

2017年3月12日「誰も正しくない 誰も悪くない」中道基夫

ローマ2:1の「ですから、 すべて他人をさばく人よ。 あなたに弁解の余地はありません。あなたは、 他人をさばくことによって、 自分自身を罪に定めています」という言葉を読むと、人のことを悪く言う人のことを連想します。自分のことを棚に上げて、人のことを悪く言うことは罪ですよというようなことをいっているのだろうと想像します。

 

 わたしたちは聖書をそのような人のちょっとした欠点や人に嫌われるような所業を問題にしているかのように読んでしまいます。たしかに、そういう言動は問題ですし、ほめられたことではありません。また、自分にも思い当たることもあり、逆にそういうことで不快な思いをしたことがあるので、なんとなく納得してしまいます。ただ、そうなると聖書は人間のよくありがちな欠点を指摘し、善良な小市民を育成するための指南書となってしまいます。
 パウロがここで問題にしているのは、ユダヤ人が自分たち以外の外国人に対して、圧倒的な自信 と優越性を持って自分たちの救いの確かさを主張し、その上にあぐらをかいていることでした。パウロは、そのように神の前にあって人間は等しく罪人であり、また逆に等しく救いの恵みにあずかるものであることを主張しているわけです。

 「みんな罪人だ。みんな悪い」というのは、問題の所在を曖昧にした一般論を言っているわけではなく、人間のうちに一切の救いの根拠がなく、ただイエス・キリストによってのみ救いがあるという圧倒的な恵みを語ろうとしている言葉です。神の前に一切が罪人であるのではなく、圧倒的な恵みの前ですべてのものが無に等しいのです。その圧倒的な恵みに今わたしたちはあずかっています。

 

2017年3月5日 「神の導きを選び取る」  吉村信夫 

 

 私たちは選びの連続の生活を送っています。習慣的にこなしている場面もありますが、折に触れて「こうしようか、しまいか」「どちらがいいだろうか」「そもそもどうしたらいいのだろうか」と迷いますし、決定せねばならないことが毎日あります。

 

 「霊的なセンスで神の導きを選ぶこと」ができるようになりたいものです。

 

 

2017年2月26日  「聖書が語る『希望』」  相浦和生

 

お招きをいただき、ありがとうございます。

 

旧約聖書からのメッセージを続けます。今回は「希望」です。テキストはエゼキエル書です。

 

「希望」「ホーフ」。ポピュラーな言葉です。ポピュラー過ぎて麻痺しているところがあります。「希望」の語彙は例えば大辞苑によれば「あることの実現を望み願うこと、またその願い」「将来に対する期待、また、明るい見通し」ということになります。であれば、人は「希望」を持つが故に生きていけるということがいえます。逆に言えば「希望」がなければ生きていけないということにもなるのですが、それでは「希望がない」という場合の「希望」とは何なのでしょうか。「希望」の語彙は先の通りですが内容はそれこそ広範です。

 

説教では一般的な「希望」について述べるのではなく、聖書の語る「希望」についてお話しします。といいましてもこれも膨大(新共同訳で「希望」と類似の言葉は100回くらい登場します)で身に余る(光栄の意味ではなく、能力を超えているの意)ことです。神学生時代にユンゲル・モルトマンの「希望の神学」を読みましたが(正確には読まされた)「キリスト教的終末論の基礎づけと帰結の研究」という副題の通り組織神学の論文でしたので理解できなかったことを覚えています。

 

エゼキエル書37章の前半には「枯れた骨の復活」(新共同訳)という表題がつけられています。11節に 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。(新共同訳) とあります。皆様も良くご存知の箇所ですのでここをテキストにお話しいたします。

 

2017年2月19日  「罪を知る」  中道基夫

 

聖書の言葉は、なかなかそのままで理解することは難しいものです。なぜなら、新約聖書は日本語とは違うギリシャ語で書かれており、しかも2000年前の中東·ギリシャの世界を背景に書かれているからです。2017年の日本で、聖書の言葉を理解しようとすると、なにか固い殻や岩盤に包まれているのではないかと感じることがあります。まず、その殻や岩盤を砕いてその奥にある「メッセージ」を引き出す必要があります。そして、その引き出した「メッセージ」を今後は、現代の日本に通じる言葉に翻訳してあげる必要があります。大変な作業ですが、とても楽しい、宝を発見するような作業です。
 さて、パウロは今日の聖書の箇所で、すべての人は罪人であるということを説明しようとしています。まず、ユダヤ人は律法によって自分の現実に出会い、罪人であることを知ります。しかし、ローマの人たちはそもそも律法というものを持っていませんので、律法で罪を説明することは難しいです。そこで、パウロは自然の摂理、創造の秩序ということで説明しようとしています。しかし、これも2000年前のローマ人の価値観によるものです。
 このパウロの言葉は現代の日本のわたしたちに説得的に響いてくるかというと疑問です。むしろ、わたしたちはいったい何に苦しみ、どんな問題に悩まされているのか感じ取ってください。そこに罪の力を発見します。なにが罪かを知ることではなく、罪の力を見抜くことの方が重要です。
                                 

2017年2月12日 「救いをもたらす福音の力」 中道基夫

 

パウロは、「わたしは福音を恥としない」と言っています。それは、同時に「あなたがたも福音を恥としていないのか?」と問うている言葉でもあります。
 では、パウロがそう宣言する福音っていったいなんでしょうか。
 パウロは、その「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」と言っています。それは単純に「イエスは死者の中から復活した」ということなんです。でも、これがなぜ私たちの福音になるか分かりません。こんなことが、なぜ私たちを救う力になるんでしょうか。
 もちろん、わたしたちが救われるというのは、九死に一生を得るとか、無病息災、安楽な死後の世界の保証してくれるということでもありません。それは、神様から「よし」とされるということです。でも、自分のどこに神がよしとしてくださる根拠があるでしょうか。到底無理です。しかし、神様は「わたしの子、イエスを見なさい。わが子イエスは、この世のもっとも極悪な罪人として裁かれ、十字架にかけられたのだ、そのイエスをわたしは復活させた。これ以上の証拠、これ以上の福音があなたに必要なのか」と言われます。そして、あなたはこれを信じますかと問われているのです。

 

2017年2月5日  「壁を作ること、橋を架けること」  吉村信夫 

 

 アメリカでトランプ新大統領が登場し、選挙期間中に主張していた数々の政策実現に向けて大統領令を連発しています。極端と指摘される種々の政策は、世界に動揺を与えていますし、アメリカ国内でも大規模な反トランプの動きが生まれています。

 

 NHKが昨年末に放送したドキュメント番組で、1989年のベルリンの壁崩壊以後、実は壁が壊されている以上に、世界のあちこちに壁が建設されており、世界にある壁は史上最も多くなっていると報告されていました。

 

 壁を壊していく動き、壁を作る動き、結局壁を作る方が主流になっているわけです。聖書の思想に立脚して考えていく私たちは、こういった具体的で政治的な問題に対して、どのように判断していくといいのか、大きな課題です。

 

 行動の人であったイエスは、教えを説いた以上に実際の行動で生きた模範を示されました。イエスを動かしている父である神からの促し、聖霊の働きを私たちの生活の原動力としていたいと願います。

 

 壁をなくし橋を架けることを人生の使命として歩みたいのです。今日のみことばとして選んだ「放蕩息子のたとえ」の父の望みは、弟の帰還を兄にも喜んでほしいということでした。理解することが難しい人それぞれの生き方ですが、最後は兄弟姉妹のつながりの大切さを意識して、違いを乗り越えていくことにつなげていきたいと願います。

  

 

2017年1月29日 「道」-神と共に歩む  近藤剛

 

神戸新生バプテスト教会の皆さま、今年もよろしくお願い申し上げます。

 

キリスト教思想のキーワードに「道」(デレフ、ホドス)という言葉がございます。

 

年頭にあたり、わたしたちが歩むべき「道」について、御言から学びたいと思います。

                              

 

2017年1月22日 「背信の子らよ、立ち返れ」 相浦和生 

 

今年はじめての方もおられますので新年 あけましておめでとうございます。新しい年もインマヌエル(神、我らと共にいましたもう)をお祈りします。

 

お招きをいただき、ありがとうございます。

 

旧約聖書からのメッセージを続けます。今回は「悔い改め」です。テキストはエレミヤ書です。

 

新共同訳は表題をつけていますが、エレミヤ書は1章「エレミヤの召命」2章「イスラエルの罪」3章4章「悔い改めの呼びかけ」「シオンへの帰還」「悔い改めへの招き」5章「エルサレムの堕落」です。冒頭から「罪と罪の悔い改め」です。

 

エレミヤ書を読む前に「罪と罪の悔い改め」について考えてみましょう。大辞苑には「キリスト教で、自らの罪を懺悔して神に赦しを願うこと」とあります。説明はその通りですが多くの人には何のことだかわからないでしょう。では「悔い改め」とは何でしょう。新約聖書で思い出すのは洗礼者ヨハネの説教です。4つの福音書すべてに書かれていますが、ルカによる福音書から読んで見ましょう。ルカによる福音書3:1-10 信仰の基本は「罪の自覚」と「罪の悔い改め」そしてそのための「受洗」であるというのです。その場合は(キリスト教への)「改心」です。でもわたくし(相浦)の場合は幼児洗礼ですから罪の自覚も悔い改めもなかったキリスト教徒なのです。その場合は「改心」ではなく「回心」がテーマとなります。パウロは「改心」を経験し、ジョン・ウエスレー(メソジストの創始者)は「回心」を経験しました。

 

話を戻して。本日はエレミヤ書から「悔い改め」について学びます。 

 

 

 

 

 

 

 

2017年1月15日 「福音を伝える」             中道基夫

 

ローマ人の手紙は、2,000年前のイエス様の生涯とその教え、福音を、現代のわたしたちに橋渡ししてくれるものです。もちろん、パウロは、なにも2,000年後の読者を意識して書いたわけではありません。また、2000年後の時代、しかも日本なんて聞いたこともない社会の人間がどんな考えをしているかなんて想像もつかなかったことでしょう。パウロは、ユダヤ人ではない、彼から見たら外国人に向けて、この手紙を書いているのです。しかし、パウロは間接的にローマの教会に関わっていたようですが、直接この教会を設立したり、牧会していたわけではありません。ですから、まったくユダヤ教の伝統に関係のないローマの人々にとっていったい何が福音(良い知らせ)であるのかを、説明しようとしているのです。

 

 それゆえ、教会は繰り返し、繰り返しローマ人の手紙を読み、そこに秘められた福音を探り出してきたのです。そして、そこで発見した福音が、人々を魅了し、変革の力を与えてきました。

 

 その力は、現代の日本のわたしたちにもおよんでいます。今、「私としては、神戸にいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」(1:15)と語るパウロの手紙を、「神戸新生教会への手紙」として読んでみましょう。

 

 

 

 

 

2017年1月8日   信仰を深めていくこと       吉村 信夫

 

 明けましておめでとうございます。今年も良き年となりますようにと祈ります。

 

 信仰は生涯にわたって成長していくものだと思います。若い時に気付かなかったことが、年をとることから気付くようになってきますし、以前の物事の理解が変えられていく経験をすることもあります。信仰養成のための養成コースをあちこちの教会で実践してほぼ30年になります。何を大切にしてきたかを紹介します。

 

 まずは「信仰体験の掘り起こし」です。誰でもその人なりの神体験、信仰体験があると考えています。ただ、どうしても生活の中に埋没してしまって、生き生きとした「信仰の感覚」が失われがちですから、折に触れて自分自身の信仰を実感し直す時が大切になるでしょう。イエスという人物が、赤の他人から知り合いになり、親しくなり、ついには深い個人的な親しみを相互に感じる関係にまでなってきたこと、あるいは、なりつつあることを意識したいものです。

 

 また、信仰理解を刷新していくことも必要です。あたかもキリスト教入門講座を自分が担当するかの如くに、信じていることを確かめ、自分の理解を明確にし、成長させる努力は大事なことです。

 

 祈りのあり方を刷新することも課題です。独り言のような祈りを双方向の「友が友と語り合うような祈り」へと成長させていくことは可能です。現実の生活の中で、何を選び、何を捨てていくかの判断が求められますから、「霊的識別」を生活の中に根付かせていくことを求めたいのです。

 

 

 

 まだまだありますが、一歩ずつ、信仰が成長することの手応えと喜びを味わう一年となりますようにと祈ります。

 

 

 

 

 

2017年1月1日   あらたしいことを行う神                         前田 直

年の初めにやまとことばで思索してみようと思います。

 

やまとことばというのは、大陸文化が入ってくる以前の日本古来の語りのことばです。漢字で思考する以前の見て、聞いて、感じたままの言葉と私は理解しています。

 

「新しい年に、こころあらたにスタートしたいと思います」といった時、この「あらたに」を皆さんはどのように感じられますか?思考するには、漢字が便利です。「新に」は、新しくする、「改める」は、振り返って、より良くするという意味があります。

 

将棋の羽生名人が長考するとき、最初の一手から改めて振り返っていって、次の一手を考えだすそうです。また、既に、数十手先を見越して、一手を打っていくそうです。勝負の世界、ビジネスの世界では、この振り返って過去に照らし、それを踏まえて先を読んでいくことをよくします。

 

では、「あらたしい」を、勝負やビジネスではなく、頭で考えるのでもなく、ただ単にその言葉の響きとして感じてみてください。

 

たとえば、今年初めて昇ったおひさま、朝露の光、生まれたばかりの嬰児、まだ誰の足跡もない雪原、種からの芽吹き・・・。なんて希望に満ち溢れていることでしょう。

 

「初めからの事を思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今やそれは芽生えている」。イザヤ書の一節ですが、不思議とやまとことばとしっくりする気がします。

 

あらたしい一年が始まります。小さな芽生えに希望を持ち、み言に聞き、祈り、賛美しながら歩んでまいりましょう。

                      

 

 

 

2016年12月25日          近藤 剛 

 

全能の神、慈悲の父よ、わたしたちに豊かな恵みを与えてくださることを感謝いたします。

 

主はわたしたちを造り、わたしたちを守り、この世のものを与え、ことに主イエス・キリストにより世を贖って限りない愛を現し、恵みを受ける方法を示し、後の世の栄光の望みを抱かせてくださいました。

 

どうかこのもろもろの恵みに深く感じ、ただ言葉だけでなく、自らを献げて主に仕え、生涯清い行いによって、主の栄光を現すことができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。

 

誉れと栄光が父と子と聖霊に限りなくありますように。 アーメン

 

                             

 

   

 

 

 

2016年12月18日「求めなさい」と言われる神      中道基夫 

 

 わたしたちの一つの問題は、「助けて」と言えないことがあります。すべて自分で抱え、自分で解決し、人には迷惑をかけないようにして、できるだけ人に「助けて」なんてことは言わないでおこうとします。できるだけ人の手を煩わせることはしないで、自分でなんとかするのが誠実で、大人として責任ある態度であると考えます。
 それは、人に対してだけではなく、神様に対しても「助けて」と言えないことがあります。今日の聖書の中で、アハズ王が「私は求めません。主を試みません」と語っている言葉があります。これは、一見敬虔な言葉であるように見えます。しかし、その背後には、神を信じない不信仰が隠れているのです。
 神を求めるということは、自分の弱さを認めるということにもなります。自分の限界が露呈してしまうために、またそれを隠すために、信仰的な表現を使って神様を求めないといっているのです。
 問題は、わたしたちがなにもかもあきらめ、神に助けてもらうかどうかが問題なのではなく、神様に「助けて」といえる関係性にあるということが大切なのです。それが、インマヌエル(神われらと共にいます)という神様からのクリスマスプレゼント対するわたしたちの応答です。

 

 

 

 

 

 

2016年12月11日  待つことの意味            中道基夫 

アドベント(待降節)は、待つことの意味を学ぶ時です。

 

 しかし、わたしたちは段々と待てなくなっています。スーパーでも、駅でも、信号でも待つことができなくなってしまいました。便利になればなるほど待てなくなってしまいました。しかし、待てなくなった時に、わたしたちは失敗をしてしまいます。果物にしろ、料理にしろ、物事の経過にしろ、待てなくて手を出してしまったとき、だいたい失敗してしまいます。

 

 待つことは、信頼すること、自分の自由にならないこと、希望を持つことを学ぶことでもあります。信頼のないところでは、待つことができません。誰かがわたしのことを待てなくて、先に何かをされたときには、自分は信頼されていないんだなと感じてしまいます。

 

 また、待つことはそのことに集中することでもあります。誰かを待っているときに、わたしたちはその人のことばかり考えています。待つことは、わたしたちのこころをそこへと向けてくれるものです。そして、その実現の喜びで胸がいっぱいになります。誰かの帰りを待つ、誰かの連絡を待つ、誰かに会うのに待つことは素晴らしいことです。

 

 わたしたちは神様の働きを待っているでしょうか。わたしたちは、神様の約束の実現の喜びに満たされて生きることは何と楽しいことでしょうか。アドベントは、わたしたちを希望を持って生きることへと招いてくれます。

 

 

 

 

 

2016年12月4日 神の導きを選ぶヨセフの識別                  吉村信夫 

 

 クリスマスを迎える準備期間に入っています。福音書にはイエス誕生物語がマタイとルカに書かれています。マタイはヨセフを中心にした話で、ルカはマリアが話の中心になっています。

 

 今日はマタイ福音1章に出てくるヨセフの選びを考えていくことにします。マリアと婚約していたヨセフは、マリアが身ごもっていることを知ります。そこでどうしようと考えたかというと、1章19節にあるように「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。ヨセフが正しい人であるとは、①マリアに不名誉な罪を負わせない思いやり、②とはいえ自分の子どもではない子を育てる必要はないと常識的な判断をしたことを意味します。

 

 でも、その正しさに対してヨセフの心に引っかかるものがあり、徐々にその考えていなかった発想に心が向いていったことが「天使のお告げ」として書かれています。ヨセフのヨセフらしい選択に対して、考えてもいなかった「マリアとの結婚を実行する」そして「生まれてくる子どもの父親になる」ことを選ぶ気持ちが強まっていきます。自己起源とは思えない発想、ある面で非常識な選択が行われます。

 

 聖霊の導きによる霊的な識別の例です。常識や自分の価値観による選択は日常の行動の基本ですが、考えていなかった可能性や方向性が選択肢となってくることがあります。その時こそ、しっかりと祈りの心で選び取る状況、場面です。損得ではなく、人からの評判の良し悪しでもなく、ただただ神さまの願いを教えてくださいという開かれた信仰の心に従って神のみ旨を求める生き方が問われます。

 

 ヨセフの識別なしには何事も始まりませんでした。信仰者の深い信仰が神のご計画を実現させていくのです。私たちもそうでありますようにと祈ります。

 

 

 

 

 

 

 

2016年11月27日 人の知恵 神の知恵           相浦和生師 

 

お招きをいただき、ありがとうございます。

 

2016.11.16付朝日新聞「しつもん!ドラえもん」2432あめりか編 問「11月の第4木曜日は有名なアメリカの祝日だよ。何と呼ばれているかな?」。答「サンクスギビングデー」「元々は秋の収穫を祝い、神様を感謝する日だった。今は家族や友だちが集まって食事をすることが多い。七面鳥の丸焼きが定番のメニューだよ」。

 

今日は収穫感謝祭を覚えて礼拝を守っています。

 

聖書的根拠の箇所は複数ありますが一か所だけ。「小麦の刈入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行わなければならない。」出エジプト記34:22

 

アメリカとカナダの祝日の一つ。アメリカでは毎年11月の第4木曜日、カナダでは毎年10月の第2月曜日であり、農作物の収穫を感謝して祝う日。1621年9月、イギリスの清教徒達(ピューリタン)がメイフラワー号に乗って自由の天地を求めて新大陸に上陸、食物を得るために苦労の日々を過ごす中で、秋の最初の農作物の収穫を記念したことに始まると言われています。日本では先の朝日新聞「しつもん!ドラえもん」の通りです。バレンタインデー、ハロウィンが商業ペースに乗っかってフィバーしているようにサンクスギビングデーも本来からかけ離れた形でイベントになるかも知れません。

 

ところで、ヨシュア記24:13に「わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」という言葉があります。皆様は、「自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている。」という神のことばをどうお読みになりますか。

 

旧約聖書には「知恵文学」というジャンルがありますが、知恵とは神の知恵のことです。今朝は「神の知恵」についてお話します。

 

 

 

 

 

 

2016年11月20日 私たちの先を歩まれる神様        中道基夫 


 わたしははたして愛されているんだろうか、と感じることがあります。愛されているという言葉は、少し強い表現かもしれませんが、わたしは必要とされているのだろうか、わたしは人々に意味があるんだろうかと感じることがあります。
 自分の価値を何かの数字で表したくなることがあります。業績、年収、財産、その数字が自分の価値であるかのように感じることがあります。また、人をそのような数字で判断してしまうことがあります。
 しかし、役に立っているかどうかではなく、わたしはわたしとして価値があるということを知ったならば、それいかに強い力になるでしょうか。イザヤ書46:3-4に「あなたは胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う」という言葉があります。「わたし」とは神様のことです。そして「あなたがた」はわたしたち人間のことです。胎内にいるとき、わたしたちは何もできません。そして「しらがになっても」はわたしたちのあらゆる力がいわゆる役に立たなくなってもということを表しています。そんな時に、神様はわたしたちを背負ってくださる。自分では歩けないからです。
 そんな何もできない、数字で価値が表せないわたしたちが、まさに神に愛された存在であるということです。

 

 

 

 

 

 

2016年11月13日  けれども、希望に生きる          中道基夫 

 

1127日からイエス様の降誕を祝うクリスマスを待ち備えるアドヴェントが始まります。いまの期節は、それに向かって旧約聖書を振り返る時を持ちます。今日は、出エジプトを導いたモーセに注目してみましょう。
 キリスト教の信仰は「語る」「聞く」ということと非常に深く結びついています。パウロも「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)と言っています。今日の聖書箇所である申命記18章でも、言葉を語るということ、言葉を聞くということがとても重要な事柄として書かれています。それは、キリスト教が単なる考え方であるとか、思想であるというのではなく、「語る」「聞く」という人格的な交わりによってなり立っているということを表しています。「あなた聞いているの」「目を見て話して」「目を見て聞きなさい」と言われるように、「語る」「聞く」ということはわたしたちの人格の深い交わりに関わることです。「語る」ということで、わたしたちはその人に深く関わり、それをどう「聞く」かということによって、その人との関わりが問われてきます。そして、その語られた言葉が真実であるかどうかが問われてきます。
 声を「聞く」のは人間ばかりではありません。人間の声を聞かれた神様が、人間に「語る」ためにモーセを派遣されたのです。それゆえ、今度はその神様の言葉を一体どう聞くのかということが人間に問われているのです。そして、神様の決定的な言葉として、イエス様がこの世にお生まれになったのです。   

 

 

 

 

 

 

2016年11月6日       分かち合う生き方と信仰              吉村信夫 

 

 10月にNHKが放送した「マネーワールド資本主義の未来」という世界経済の現状を報告し、今後の動きを探る3回シリーズの番組がありました。爆笑問題というお笑いコンビが進行役になって、若手の経済学者が交代で解説するという番組でした。

 

 資本主義は限界に達しているのか、新たな方向に進むのかなどとともに、20世紀にはなかったような超巨大企業が国家を相手に莫大な損害賠償を求めて提訴する裁判が世界で約700件残っていること、20世紀の南北問題のような国家間格差が相変わらずであると同時に、一国の中での国内格差がとてつもない巨大格差になっていることなどが紹介されていました。

 

 これからの21世紀の世界において、かつてなかった動きが大きくなり始めていて、その動き次第では「捨てたものじゃない世界」が出現することも考えられるという示唆を最後に終わっていました。その可能性とは、共有経済sharing  economyの与える影響の大きさということです。個人的な所有を目指して購入してきたあり方が、共同で使用することで所有を不要とする発想に変わっていく、個人も組織も財産を取り込むこと以上に、分かち合うことを通して必要な便利さを確保するあり方です。ルームシェアリングとかカーシェアリングなどはその動きですし、都市部にみられる自転車の会員レンタルとか、話題になっている「民泊」もこの流れの中にあります。

 

 4つの福音書に合計6つも出てくる「パンを増やす奇跡」の話があります。よほど大事なことを語っているのでしょう。マタイとマルコには2回ずつ出てくるくらいですから。

 

 以前から心に残っている解釈があります。たった5つのパンと2匹のさかなが分かち合われていき、そこにいた人たちも大事にしまってあった食べ物を思いきって出して分かち合うことになったということ。そんなバカな!と言われますが、深く探ってみたいと思っています。   

 

 

 

 

 

 

2016年10月30日 パウロに見る 「私たちの信仰と歩み」   西脇慎一  

 

使徒パウロは、徹底的に自分の信仰の通りに生きた人物でした。初め、彼はファリサイ派の一員としてイエスの弟子たちを迫害していました。ところが、ダマスコ途上の道でイエス・キリストに出会った時、彼はまさに生き方の方向転換(悔い改め)をし、恥も外聞もなく、イエスこそキリストであることを伝えて回ったのです。彼は、同胞たちからの迫害を恐れず、キリストの弟子からの復讐をも怖がることはありませんでした。何故ならば、彼自身がイエスとの出会いを通して得た信仰に生きていたからだと思います。

 

皆さんはどう思うでしょうか。もし、自分が真理に気付いた時、これまでの生き方を180度変えることは出来るでしょうか?私は実際なかなか難しいことだと思います。ただ、そこが「信仰が問われるポイント」なのだと思います。私たちは、どのように「信仰」を生きているでしょうか。

 

今日は15171031日に起きたマルティン・ルターの宗教改革の499回目の記念日の前日です。宗教改革もまた、一人一人の信仰の改革、つまり教えられて受け取っていた信仰から、自分の信仰に生きるための運動でありました。今日、自分自身の信仰を改めて考えながら、聖書の御言葉に聴いて参りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年10月23日   主よ立ち返り私の魂を助け出してください         相浦和生 

お招きをいただき、ありがとうございます。

 

1970年頃、教会付属保育園の保母さん(今は保育士)たちと、羽仁もと子さんの著作集(全21巻)の読書会をしました。そして多くの学びを得ました。特に第14巻「半生を語る」は今も心に残っています。羽仁もと子さんの生涯を貫いた信仰は「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」です。即ち、「祈りつつ聖書を読み、聖書を読みつつ祈り、信仰生活を送る」ということです。わたくしはこのことを今でも大切にしています。

 

旧約聖書をテキストにした説教。今回は「祈り」です。祈りはわたしたちの信仰生活の基です。が、あまりにもポピュラーですので説教のテーマとすることはむしろ難しいです。そして、「祈り」は聖書全体を貫いていますから今回のテキストの選択は難しかったのですが、「詩編6編」を選びました。詩編は、「朝の歌」「夕べの歌」「祭りの歌」「巡礼の歌」「王の即位の歌」等々に分類できますが、大きくは「祈りの歌(詩)」です。この詩編6編の詩人の祈りから学びます。

 

この度、週報はあらかじめメールで配信されていますからこの文章もあらかじめ読んでいただけると思いますので、詩編6編を何回か読んで黙想して礼拝に臨んでいただければ幸いです。

 

再び、羽仁もと子さんですが、羽仁もと子さんにはその生涯において大きく三つの苦難(第一高女受験に失敗したこと、離婚を経験したこと、二女涼子さんを神様の御もとに送ったこと)がありました。そのたびに克服して道を開いていったのは「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」だったのです。

 

※羽仁もと子:1873年9月8日、青森県八戸に誕生。明治女学校でキリスト教と出会い、一番町教会で植村正久より受洗。報知新聞社の女性記者第1号、自由学園、婦人之友、幼児生活団、友の会を創設。1957年4月7日逝去

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年10月16日 「それでも希望に生きる」  中道基夫

 

若い人たちと話していると、いつも不安を感じていることに驚くことがあります。
 就職活動をしている時は、就職できるだろうかと不安になっています。何十社も受けて、全部ダメだった時に、もっと不安になり授業に出てこられない学生もいます。しかし、その学生が内定が決まったので、「おめでとう、良かったね」と言うと、その会社でうまくやっていくことができるだろうかと不安だ、ひょっとして2-3年で辞めてしまったらどうしよう、不安だと語っていました。その人の性格もあると思います。また、若い時代は落ち着かない、不安定な時だとも言えます。年配者からすると、心配ないから思いっきりやりなさいと言いたくなるのですが、それよりも自分の中で起こってくる不安の力の方が強いみたいです。しかし、どんなに言ったところで、自分がその不安に立ち向かって、それを克服する経験を積んで行くしかありません。
 ピリピ人への手紙は、「喜びの書簡」とも呼ばれています。著者のパウロは牢獄の中にありながら、喜びについて語っています。まさに人生の不安のただ中にありながら語っているのは「喜び」です。では、いったいその力はどこから出てくるのでしょうか。
 そのキーワードになるのが、「けれども、私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:21)ということばです。特に「けれども」という言葉は、立ちこめる暗雲を振り払うような力があります。わたしたちだって何もすべてが順風満帆に行く日々ではありません。しかし、自分がいったい何に支配されているのか。暗雲立ちこめるような現状にいながら、「わたしたちの国籍は天にあります」と言えるところに信仰の力、希望の力があります。
                                  


 

2016年10月9日「主よ、ごもっともです。しかし・・・」  加納和寛 

 

 

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」イエス・キリストに娘がいやされることを願った女性のこの言葉から、私たちは二つの事柄を感じ取ることができます。

 

第一が神への熱意です。神への熱い信頼です。神は何でもおできになる、神は私たちを助ける力を持っているということを、単なる知識としてではなく、心から熱く信じることが大切です。結果は必ずしも私たちの思いどおりになるわけではないかもしれませんが、私たちの願望をはるかに越えた神の働きに私たちは出会うことになるのです。

 

第二は謙虚さです。真に偉大で敬意に値する存在を前にした時、私たちは頭を垂れるほかありません。それは仕方なく服従するという意味ではありません。イエス・キリストが私たちのところへ降りてきてくださった愛の謙虚さによって、私たちもまた謙虚さへと導かれるのです。

 

熱意と謙虚は一見すると正反対のことのように思えるかもしれませんが、この両方が真の意味で解き放たれたとき、私たちは世の常識を越えた神の力が私たちに及ぶのを目の当たりにするのではないでしょうか。私たちは、個人としても、社会としても、なお多くの課題を抱えています。物質的貧困が解決されたと思えば心の貧困が重くのしかかり、多くの病気が治るようになった一方で心の悩みは尽きることがなく、国家間の戦争は防げたとしても身近な人間関係のトラブルは次々に発生するばかりです。

 

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」この言葉は今なお、私たちがささげる祈りの言葉であり続けています。それは神が働いてくださるという希望を確かにしてくれる、イエス・キリストが認められた、熱意と謙虚の祈りなのです。

 

 

 

2016年9月25日「あなたの手のすべての技を祝福して下さる神」 相浦和生 

 

お招きをいただき、ありがとうございます。

 

旧約聖書をテキストにした説教。今回は「祭り」です。

 

日本は祭り王国です。祭りは人々の気持ちを高め、絆を堅くします。祭りはいいものだと思います。皆様は「祭り」についてどのような思い出がありますか。わたくしは、親が祭りに関心がなかったのでこどものころの祭り体験はほとんどありません。

 

申命記16:13-17にイスラエルの三大祝祭日が書かれています。種入れぬパンの祭り(新共同訳聖書では除酵祭)、仮庵の祭(仮庵祭)、七週の祭(七週祭)です。これらは何故「三大」なのでしょうか。

 

日本の三大祭は祇園祭(八坂神社)、天神祭(北野天満宮)、神田祭(神田神社)だといわれています。日本の神社仏閣の数は約16万、そして20万とも30万とも言われている祭りの中で「三大」とはすごいような気もしますが、では何が「三大」なのかはわかりません。格、優劣のランキングではありえないし、動員数(300万人から200万人で三大祭は含まれない)でもないのであれば何故?

 

イスラエル民族は元来遊牧の移動民族ですから「祭り」は持ちませんでした。イスラエルが申命記に書かれているような祭りを行うようになったのは出エジプト後、カナンに定着してからです。カナンの宗教は農耕神の宗教で、バアル神、アシェラ神などが知られています。イスラエルの民はカナン定着後、農耕を学びましたが同時にカナンの宗教信者にもなりました。これは重大な十戒違反(律法違反、掟違反)です。そこでイスラエルはこれらカナンの宗教をイスラエルの宗教に採りいれて種入れぬパンの祭り、仮庵の祭、七週の祭をつくったのです。

 

けれども、名称、形式は同じでもカナンの宗教とイスラエルの宗教とでは決定的な違いがあります。そのことを本日のもう一つのテキスト、ルカの福音書12:13-21を参照しながら学ぶことにいたします。

9月28日「主の慰め」                                杉山牧師

 

 

神戸新生教会でみなさまと守る最後の礼拝となりました。

 

 あっという間の一年半でした。とても多くの出会いをいただき、愛され、祈られ、慰められた一年半であったと思い、主に感謝をしています。

 

 楽しいことばかりではなく、苦しいことも多かった一年半でしたが、苦しみを通してパウロの思いを感じることができた一年半でもありました。そういう意味では、わたしの信仰の歩みにおいて、献身者としての歩みにおいて必要な時間であったと思っています。赴任前の不安と恐れを感じている中、卒業礼拝で杉山牧師(山形教会牧師・父)より語られた慰めのメッセージに励まされて一年半の時を過ごしてきました。わたしたちがイエスさまの福音の喜びを知るためには時には苦難が必要です。苦難を通してパウロは主の慰めを知り、主により頼むようになり、救い出してくださったと確信をするに至るのです。創世記の学びの中で、信仰の父と言われるアブラハム、イサク、ヤコブの人生、そして、その後に続くヨセフの人生について見てきましたが、誰の人生を見ても、苦難や苦悩が絶えません。神さまが祝福を約束してくださっているにも関わらず、なんとも不条理と思えるような試練が続きます。でも、そのような苦難の人生の中で主に信頼し、希望をいただき、感謝して生きる信仰の父たちの姿を見るのです。わたしたちは神さまから受ける慰めを知るためには、苦しみをも知ることが必要です。苦しむことがないならば、慰めを知ることができないからです。慰めを知ることで、人を慰めることができるようにされていくのです。苦しみを経験する時が、主の慰めを知る機会となることを願っています。苦しみの連鎖を断ち切って、苦しみから慰めを学ぶ者として生きていくことを聖書から学んでいきたいと思います。

 

 

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礼拝の要約が見れます

 

日本バプテスト連盟 

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